VOICE of PR Planner (2018年5月)

エンタメにおいてフリーランスでPRをやるということ

粟村香織

フリーランスでPR・編集・ライターと、3 本の柱を軸に働いています、社会人歴17 年目、フリーランス歴3 年目、PRプランナー取得2 年の粟村香織です。

PRSJ の中でも少し変わった職歴かも知れません。大学卒業後、吉本興業に入社。1 年半のマネージャー経験後、当時芸人さん数百人所属の中わずか3 人という東京支社広報部に約8 年在籍しました。会見など一般的な広報業務はもちろんのこと、PRという言葉を聞いたことがなかった2000年代前半、お笑いブームで毎日山のように来る取材依頼をあますことなく芸人さんたちの告知や特技につなげたいと思い、取材依頼すべてを一手に引き受けたことが、今の私の“PR”の柱となりました。

当時の吉本広報では、『マンスリーよしもと』という300 円のミニ雑誌を毎月制作。自主ではなく、きちんと広告タイアップもつけ、書店販売していました。内容はかなりマニアックだったかもしれませんが、プロの編集者、ライター、カメラマンと協力し、唯一無二の、日本のお笑いを世界に誇れる魅力的な企画を作っていた自信があります。これが私の“編集”の柱です。

その後、芸人さんの広報を続けたいと願っていた私のところに偶然降りてきたのが、Webサイト「お笑いナタリー」の立ち上げ話。後ろ髪を引かれながら吉本を去り、まだ世の信頼を得ていなかったWebニュースという未知の分野で、不安の中、1 本でも多く芸人さんの記事をアップするため、寝る間も惜しんで書いた記事数は5 年弱で約1 万5000 本。すべてのお笑い事務所との関係を構築し、他の媒体がまだあまりやっていなかった芸能会見の速報や、芸人さんと密だからこそ可能なSNSを沸かせるスモールマス向きのコア記事など、Webの特性を学ぶとともに、“ライター”という柱ができました。

しかし、いずれ実家のある岡山県で観光に携わる仕事がやりたいと考えていたため、部署異動を機に退職。そこで取得したのがPRプランナーの資格です。1 次試験では、広報になりたての頃にぜひ読みたかった!と思う参考書の内容に感激。3 次はセミナーに参加し、まったく知らなかった芸能以外の業界を知り、今でも集まって飲む心強いPR仲間ができたことに感謝しています。
すでに帰省を宣言していたため、資格勉強中は単発の仕事のみ受諾。ライブのPR、パンフレットやフライヤーの制作、テレビ局の番組原稿、リリース制作・配信、会見の仕切り、イベントキャスティングなど、1 人でやる責任の重さを感じつつも、これまでやってきたことがすべて活かせることへの大きな充実感を感じていました。そこに、PRプランナーの資格を取ったことで、現在主軸であるぴあ株式会社をはじめ、芸能、テレビ、イベント、DVD・出版業界などから、業務提携、レギュラーの仕事の依頼が舞い込みました。驚き、困惑しましたが、経験を積むことが今後のためになると思い、帰郷を延期。今でも芸人さんたちに「まだおるんかい!」とツッコまれながら、テヘヘとごまかす毎日です。

お笑い界にPRという言葉が浸透し始めたのは最近ことではないでしょうか。商品そのものが強いPR力を持ち、マネージャーがPRも担うからです。しかし多種多様なコンテンツが増えるとともに、ライバル業種も増えた現在において、効果的に商品の力をサポートする広報・PRパーソンの活用は俄然有利だと考えています。私自身、例えば1 つのライブにおいて、情報解禁に始まり、フライヤー・グッズなどのディレクションや制作、ライブレポートまで携わりリリースも兼ねることは利便性が高い上、受け手を惹きつけるための一貫性やストーリー構築がしやすく、SNSでの反応も増加傾向にあると実感。商品自身やマネージャーではカバーしきれないところを大いに担えます。あまり周りに同業がいないため、情報不足&独断になりがちなことが今の悩みですが、PRSJ のセミナーや仲間に助けられながら、今後さらに幅を広げられればと思っています。